クラシック音楽とオーディオが大好きなblog

とてもゆる~いファンです。悪しからず・・・

『ダンソン第2番』

 『ダンソン第2番』、不肖私の大好きな曲の一つであります。日本ではあまり馴染みがないかもしれませんが、北米やヨーロッパではオーケストラでよく演奏される人気曲です。メキシコの現代作曲家アルトゥロ・マルケスが、1994年に発表した彼の代表曲で、演奏時間は約10分、別名『ダンソン・ヌメロ・ドス』でも知られています。「ダンソン」というのは、キューバ発祥の踊りの音楽だそうです。

 初演は大学生のオーケストラによる演奏だったにもかかわらず、たちまちメキシコ国内で大ヒットし、いまではメキシコの第二の国歌ともいわれているとか。冒頭はクラリネットのしっとりしたソロで始まり、だんだんと広がりと展開を見せ、最後は大団円の大盛り上がり。それでいて、とても郷愁に満ちた魅力的な曲です。まだご存じない方は、Youtubeでも紹介されていますので、ぜひお聴きになってください。

 私の愛聴盤は、ベネズエラ出身のドゥダメル指揮、シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラによる2008年1月の録音です。この盤には他にも10曲におよぶラテン音楽が収録されており、躍動感あふれるエキゾチックな演奏に耳?を奪われます。あと、オススメというわけではありませんが、アロンドラ・デ・ラ・パーラ指揮、フィルハーモニック・オーケストラ・オブ・ジ・アメリカスによる盤もあります。アロンドラはメキシコの美貌の女性指揮者として人気がある人です。

 

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フィエスタ!

フィエスタ!

長岡鉄男さんの言葉

  • オーディオは音楽鑑賞の道具ではない。独立した趣味だ。
  • 手段が目的化することを「趣味」と言う。
  • 音楽とは音を楽しむことであるという主張がある。オーディオマニアの中には音楽を聴かないで音を聴いてる人が沢山いる。自然界の音。雷鳴、風、虫の声。機械の音。SL、飛行機、騒音等。多種多様の音を、どこまで忠実に再生できるかがポイント。生の音と区別がつかなくなるのが目標である。
  • 趣味のオーディオはまず、道具を選ぶ。ベストセラーになっているミニコンポなんかは対象外。名器、珍器、怪器、ひとくせもふたくせもあって、使いこなしが難しくて、なかなかうまく鳴ってくれない。悪戦苦闘し、徹底的に使いこなし、凄い音を出してみせる。これが趣味のオーディオである。
  • オーディオとは、ひとりひとりが、己れのセンスを追及していくことであり、一万人のオーディオマニアがいれば、一万組のちがったコンポーネントができて当然なのである。
  • オーディオマニアも音楽を聴く。しかし、音楽そのものを聴いているのではなく、音楽を通して、コンポの凄さを確認しようとしているのである。この場合、音楽は目的ではなく、コンポに磨きをかけ、箔を付けるための手段だと考えられる。
  • 本当の音楽ファンは生演奏しか聴かない。生と再生の間には決定的な違いがある。リアルタイムとプレイバックの違いといっても良い。たとえば大相撲中継は、テレビの中継であっても興奮する。しかし、夜の大相撲ダイジェストに興奮する人はいない。結果が出てしまったあとのプレイバックだからだ。
  • これは世界の銘器だ」と暗示をかけられて聴くと、実は故障していた装置でも素晴らしい音に聞こえたりする。実音に幻聴がミックスされたと考えてもいいだろう。
  • 未来の地球を支配するのはロボットかサイボーグか、クローン人間か、ミュータントかネズミか、ウィルスか、いろいろ空想されているが、一番可能性の高いのは情報だろう。情報が主人公で、手下としてコンピュータとロボットがいる。正に最強。人間は彼らの言いなりになるしかない。
  • リファレンススピーカーとは何か。特に定義はないが、ごく単純に考えると、プレーヤーやアンプをテストする時に使うスピーカーである。実は欠点の多いスピーカーでもテスト用には使えるのである。欠点が拡大されるか抑制されるかで相手の性格を判断できるのである。
  • 振動版は剛体であることが理想だが、理論的には考えることはできても現実的には絶対に存在しないものである。現実の世界で剛体に近い振動版を作ろうとすると必ず重くなる。一方、振動版の理想は質量ゼロである。この矛盾も解決不可能だ。
  • 原音再生、原音場再生はオーディオの目標のうちの一部にすぎない。オーディオには、ほかにも多くの目標や効用があるのだ。もっと頭を柔らかくして、多面的に考えなければいけない。大体、オーディオすなわち"再生"と考え、"再生"装置などというおかしな日本語を作ってしまったのがいけない。
  • メーカー製のスピーカーがたくさんあるのに、なんで自作スピーカーなのか。制約が多くなりすぎるからだ。外形、内部構造、経済寸法、製造工程、音質、価格等々、多くの点で標準を逸脱したものは会社が作らせてくれないからだ。
  • 欠点だらけのものを取り上げて徹底的に叩くということは、商業誌では不可能である。広告を出していない小メーカーの製品なら、やろうと思えばやれるが、僕らとしては積極的に応援したいと思っているので、わざわざ叩くというようなことはやりたくない。取り上げる以上はどこかに長所のある製品に限る。
  • 昔のステレオはぜいたく品であり、一部のマニア、エリートのもの、貴族趣味であった。今のステレオは大衆化の極致に達し、音楽はレジャーというより、空気のような存在になってきている。内容も変われば、録音も変わる。
  • 名演名曲に名録音なし、理由もはっきりしている。名曲を録音で選ぶ人が少ない、好きなアーティストのものならなんでもお構いなしというのも多い。名曲名演に録音を云々するなど言語道断、不敬の極みという一般的風潮もあるようだ。人気のないものにこそ名録音がある。

 

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ブルックナーの交響曲第8番

 「ブルックナー交響曲は、すばらしい大自然の中に身をおくのに似ている。遠く残雪におおわれたアルプス、崇高な夕映え、牧場の片隅にそよぐ一輪の花、青空に浮かぶ白い雲、それから悠久を想い、生きる者の淋しさを想い、神を想う心、それがブルックナーの音楽の本質である」。このようにおっしゃっていたのが、故・宇野功芳先生です。さすがにステキな表現をなさるもんだと感服いたしますが、この凡百の私でさえも、ブルックナーの音楽が、他の一般の音楽とは次元、世界がまったく違うもんだというのは感じることができます。

 ですから、同じクラシックの曲であっても、ブルックナー交響曲を聴くときの鑑賞態度といいますか気持ちの持ちようとかが、他の曲とは大きく違ってきます。威儀を正すというと少し大げさですが、何となくそのような感じ。ベートーヴェン交響曲に向き合うときも、ある種の気構えをもって臨むようなところはありますが、ブルックナーの場合は一種独特。とにかくふつうではない。

 そして、掲題の《第8番》ですが、親愛なる元オーボエ奏者の宮本文昭さんにとって、この第8番は音楽家としての自分を形成した、切っても切り離せない大事な曲だそうです。一日一回は必ずブルックナーを聴くという宮本さんによれば、クラシック好きの中で、この《第8番》が好きじゃなかったら、その人はモグリか嘘だと思う、って。わー、そこまでおっしゃいますか。でも、そのとおりだとすると、モグリのクラシック音楽ファンはけっこう増えてしまうのではないでしょうか。

 そんでもって私のオススメ盤をご紹介しますと、シモーネ・ヤング指揮、ハンブルクフィルハーモニー管弦楽団による2008年の録音です。女性に人気のないブルックナーでありながら、何と、オーストラリア出身の女性指揮者による演奏です。こんな言い方をすると怒られるかもしれませんが、とても女性が指揮しているとは思えない、非常に重厚で硬質な音色が響き渡ります。とても男らしい!です。

 

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もっとアダージョ!

 「アダージョ」は、「くつろぐ」とか「静かに、慎重に」という意味のイタリア語だそうですが、クラシック音楽では「ゆるやかに」という指示、あるいは遅いテンポで書かれた楽章のことですね。かつてそうした曲ばかりを集めた『アダージョカラヤン』というCDが世界的にヒットしましたが、残念ながら私は持っていません。皆さまはどのアダージョがお好きでしょうか。やはりマーラー交響曲第5番のアダージェットあたりが最右翼でしょうかしらね。

 実は不肖私、交響曲や協奏曲を聴くに際して、アダージョの楽章はそれほど重要には感じてこなかったんです。音的に寂しいというか・・・。でも、元オーボエ奏者の宮本文昭さんは、著書の中でアダージョをこのように表現しています。「すべてが吸い取られるような静けさ。足跡がひとつもついていない白い雪の上を、『ああ、なんてきれいなんだろう』と思いながら静かに歩いていく・・・」

 宮本さんは、実はこの解釈は受け売りだと言っています。音楽学校の桐明学園に通っていたとき、音楽理論佐野光司先生に教わったそうです。佐野先生の説明をさらに詳しく紹介しますと、「アダージョはね、しーんとした静けさですよ。僕はあるときスキー場で、雪がおさまった後に外へ出てみたら、夜空に月が完全なかたちで出ていましてね。処女雪が丘一面を覆いつくして、誰もまだ足跡をつけていない。そこをギュー、サクッと一歩一歩ゆっくり歩いていく感覚。それがアダージョ」だそうです。

 こんな言い方をされると、今までアダージョを軽んじていたのが恥ずかしく、また勿体無く思ってきます。ちなみに宮本さんがいちばん好きなアダージョは、モーツァルトの《クラリネット協奏曲》の第2楽章だそうです。死の直前にこの曲を書いたモーツァルトは、自分の死期を悟り、すべてをやり尽くしたという心境だったのではないでしょうか、って。私もこれから、もっと深くアダージョに耳を傾けたく思います。

 

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マーラーの言葉

  • 私は三重の意味で無国籍者だった。オーストリアではボヘミア生まれとして、ドイツではオーストリア人として、世界ではユダヤ人として。どこでも歓迎されたことはなかった。
  • 私の死後50年経ってから、私の交響曲を初演できればよいのに。今からライン河のほとりを散歩してくる。この河だけが、初演のあとも私を怪物呼ばわりすることもなく悠然とわが道を進んでゆくただ一人のケルンの男だ。
  • 伝統とは炎を絶やさないことであり、灰を崇拝することではない。
  • 交響曲を書くことは、私にとって、世界を組み立てることなのだ。
  • やがて私の時代が来る。
  • 交響曲は世界のようでなければならない。それはあらゆるものを包含しなくてはならない。
  • 我々現代人は、我々の大小の思想を表現するためには大きな手段を必要とする。第一に我々は誤解されるのを避けるために、虹の彩色をさまざまのパレットの上に分ける必要がある。第二に我々の眼はますます多くの色を見、ますます繊細な変化を見ることを習得する。第三に我々の余りに巨大な音楽会場や歌劇場において多くの人々から理解してもらうために、大きな音を出さねばならない。
  • バッハのポリフォニーの奇蹟はまったく他に例のないものです。単にその時代でというのではなく、あらゆる時代を通じてです。
  • とても口では言い表せないほど、バッハから次々と、しかも回を増すごとに、より多く学んでいます(もちろん子供のころからバッハに教わっています)。というのも、自分自身のもって生まれた音楽の作り方がバッハ的なのです。もっとこの最高のお手本に没頭できる時間さえあったなら。
  • 不思議だ。音楽を聴いていると――指揮をしているときでさえ――疑問に思っていることすべてに対して確たる答えが聞こえてくる。そうするとまったくすっきりした確かな気持ちになる。あるいはさらに、疑問など元々ないのだと、はっきり実感する。
  • リヒャルト・ワーグナーの肺から吹き起こる、あのものすごい突風をまともに食らったら、ブラームスなどひとたまりもないだろう。
  • 私はいつも自分を高い所に置いておきたい。いかなるものによっても煩わされたり、引きずりおろされたりしたくない。そういう高さに常にいるのは至難のことだ。
  • 世界の人々の意見を、私たちを導いてくれるお星さまのように考えることではない。人生の中で、失敗にめげることもなく、拍手喝さいに浮かれることもなく、自分の道を歩み、絶え間なく努力することだよ。
  • (妻のアルマへの言葉)君は若くて綺麗だから、ぼくが死んだら誰とでも一緒になれるね。誰がいいかな? 〇〇は退屈な男だし△△は才人だが変わりばえがしなさすぎる。やっぱりぼくが長生きしたほうがいいか。

 

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試聴ルーム

 大きな家電量販店のオーディオ売り場に行くと、広い試聴ルームがありますね。各メーカーのスピーカーやアンプが所狭しと並べられていて、実に贅沢で壮大な景観です。私が見たときは、真ん中のソファーにおじさんが座っていて、ずいぶん難しそうな表情で幾つかのスピーカーを聴き比べていました。どれにしようか悩んでいたのでしょうか。

 しかしながら、不肖私、オーディオ展示会なんかもそうですが、ああいう環境での試聴によって、本当に音質を確認することができるのか大いに疑問に思っています。ちょっと批判めいてしまいますが、あまり聴こうという気にならないです。そのおじさんが聴いていた音も、私には何だか拡声器の試運転の音のようにしか聴こえなくて、居たたまれず早々に立ち去ったものです。おじさんはその後どうしたのでしょう。

 ああいうだだっ広い場所で聴くのと、自分の家で聴くのでは全く条件が違いますからね。試聴ルームや展示会場でもしバランスのよい音が出ていたとしたら、家ではかえっておかしな音になるというのは大いに考えられるというか、絶対に同じであろうはずがありません。オーディオは半分以上は部屋の音を聴いているとも言われます。とくに壁からの反射音の具合は、オーディオの音質を左右する大きな要素のはずです。条件が違い過ぎます。

 それから、スピーカーのセッティングに関してはもうメチャクチャで、まるで積み木のように重なり合って並べられていますでしょ。展示会ではさすがにきちんとセッティングされているようですが、それでも細かな調整までは無理だといいます。さらには電源、これもいかにもきれいではなさそうです。試聴ルームはともかく、展示会場は決してオーディオ専用に造られたわけではないですからね。ざわついているので、細かなニュアンスも感じ取れません。

 じゃあ一体どうやって自分に合ったスピーカーを選べばいいのかというと、これはもう自分の部屋にあれこれ持ち込んで聴き比べるしかないですが、そんなの無理。となると、たとえばお嫁さんを選ぶのと同じですね。結婚してからじゃないと分からないことがたくさんある。試聴ルームで音質の好悪の片鱗が聴けるということと、実機を目で見て確かめられるという意味はあるわけで、要するにネコをかぶったお見合いですね。あとは運と努力次第?

 

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ベートーヴェンの交響曲第3番

 元オーボエ奏者の宮本文昭さんが、著書の中でベートーヴェンのことを(愛情をこめて)こき下ろしています。これからクラシックを聴いてみようと思っている方は、いきなりベートーヴェンから入るのは間違いだ、って。ひと言で言えば、とっつきにくい。メロディの美しさに徹することができないから、交響曲第6番《田園》以外は、特に美しい仕掛けのようなものは見当たらない。悲しみを表現するときも、どことなく不器用だし、楽しそうなところですら、ちょっとヘン。何をやるにも直球を投げてこない。

 さらには「空気が読めないヤツ」だったに違いないなどと、もう散々な言われようです。もう少し大衆に迎合してもよかっただろうに、とにかく自分の主義主張を曲げない。モーツァルトに憧れていたくせに、ひらめきを生かして自由奔放に、音が持つみずみずしさを引き出すことができなかった、とも。しかしそうは言っても、結論としてやっぱりベートーヴェンはすごい!って。

 僭越ながら不肖私も、宮本さんのご批判にはまったく同感です。とはいえ私も、たとえば他のいろいろな作曲家の交響曲を聴いた後にベートーヴェンに戻ってきますと、「あー、やっぱりベートーヴェンだなー」って強い感慨を覚えます。風格といいますか、落ち着きといいますか、収まりどころのよさといいますか、そのあたりの次元の違いを如実に感じます。どうあっても、やっぱりベートーヴェンはすごい!

 ところでタイトルに掲げました交響曲第3番ですが、2016年に英国BBCミュージック・マガジンが実施した151人の世界の指揮者たちへのアンケートによって選ばれた「交響曲トップ20」で、堂々の第1位を獲得しています。第5番でも第9番でもなく、この第3番が選ばれたというのは、なかなか興味深いところです。私もよく聴く曲ではありますが、第1位かと問われるとちょっと悩みます。素人には分からない、プロならではの着眼点や判断基準というのがあるのでしょうかね。

 宮本さんは「大衆に迎合しなかったベートーヴェン」と言っていましたが、実は第4楽章の途中に、当時流行っていたというハンガリアン・ダンスの音楽を取り入れているとこがあるんですね。指揮者の金聖響さんはその部分を「ダサイ!」と評しています。流行を取り入れるのは、その時代にはウケても、時代が進むと古臭くダサくなるって。それはそういうもんだろうと思います。私でさえ何も知らずに聴いていたときも、そこだけ妙な違和感がありましたから。大衆迎合なんてしなくていいんですよ、ベートーヴェンは。

 

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ベートーヴェン:交響曲第3番

ベートーヴェン:交響曲第3番